現場でなんとかしてしまう代表的日本人
代表的日本人
内村鑑三
2020/6/7 読了
内村鑑三は武士の家系に生まれた。クラーク博士の教え子となり、その影響を受けてキリスト教に帰依。専門は水産学。アメリカに留学して信仰を深めるも教派には属さず、帰国後は武士・日本人の考え方をキリスト教的精神と照らし合わして語る独自の布教活動を行う。
代表作「代表的日本人」(1897)は西郷隆盛や二宮尊徳など日本人的な美徳を持った人物を英語で西欧へ紹介した内容。日本人とはどのような美意識を持っているか説明することによって、西欧に日本人への理解を広めた。
一八九四年に書かれた本書は岡倉天心『茶の本』,新渡戸稲造『武士道』と共に,日本人が英語で日本の文化・思想を西欧社会に紹介した代表的な著作である(岩波文庫 説明文より)
日本的英雄を紹介する「代表的日本人」が代表作ではあるが、内村鑑三の信条としては講演会「後世への最大遺物」で語られるように、日常の中で誠実に生きることこそが大切であるとの考えの持ち主。
西郷隆盛、二ノ宮尊徳、中江藤樹(本書では上杉鷹山・日蓮は割愛されていた)など登場するのは、欲はなく、人のため世のために尽くす人ばかり。謙虚さ、誠実さこそが美徳とされる。これは儒教的な日本人の道徳観からきているが、キリスト教にも通じる。キリストが何も持たずに貧しい信者たちと行動を共にしたように、代表的日本人たちも貧しい人たちと同じ場所に立って共に歩む。
二ノ宮尊徳に代表的日本人が特に表れている。尊徳は自ら村に乗り込んで共に暮らすことで村人との信頼関係を作り上げ、農業技術を教えて荒廃した村の人々の精神と生産能力を立て直す。この本を読むだけでも、二ノ宮尊徳は殿様に年貢の割合を先に交渉するなど政治的な駆け引き・システム構築能力にも長けていることはわかる。だが、いわゆる二ノ宮尊徳は勤勉・努力ばかりが持ち上げられてそこらじゅうの学校に銅像が建てられている(いた)。きっと、本人がこの光景をみたら子供たちでなく、教師や校長が子供たちの手本になるような人物たれと説いただろう。自ら前線に立たねば人はついてこないとことを知る尊徳が、銅像を置いてどうにかなると思うわけがない。
政治的な責任を問わず現場においてやる気と誠実さでなんとかしてしまうのは悪い意味での代表的日本人だ。責任ある立場の人が誠実さと謙虚さを持つべきなのに、支配するのに都合の良い思想として広められてきたのだなと痛感する。
本書の中で西郷隆盛と中江藤樹は「陽明学」の影響を受けていると書かれている。
陽明学では学問を極めることによって聖人に辿り着くのではなく、儒教的な道徳的な生き方を実践することで聖人となれる。学者や武士という特権階級と庶民の差はなく、誰もがその生き方で価値が決まる。この陽明学の思想は幕末の志士を大いに奮い立たせ明治維新の原動力になったという。
思えば現代日本においても、陽明学の思想は浸透しているように思える。学問を究めた人間よりも、どのように生きたか、生きているかで人間の価値が判断される。
目につく本があれば陽明学についても読んでみたい。
自由という束縛
2020/06/10
『思想家たちの100の名言』ロランス・ドヴィレール/白水社
「人間は自由の刑に処せされている」サルトル
自由であるとは、まさに不安でたまらないことなのだ。それゆえにわれわれは自己欺瞞から、自分に定められた役割(喫茶店のボーイ、哲学者、ブルジョワなど)のなかに逃げ、そこに心頼みや安堵を見いだすのである。
何にも属さない、自分の意志で何でもできる状況が自由だとすれば、自由意志によって何者かになってしまった自分はもう自由ではない。
ーーー
子どものころマンガの北斗の拳に出てくる雲のジュウザが好きだった。「俺は自由だ、雲のように生きる」みたいな事を言って、気ままに生きていたジュウザは自由を体現している理想の人に思えた。
自由は人とは。何にも属せず、何かになりたくも、何かを成したいとも思わない。定職につくのはもちろん、友人、恋人もなく、共同体や家族に属するなんてとんでもない。
そう思えば、スナフキンは自由に見えて自由ではない。小説版のほうが顕著だが、自由に憧れて自由に振る舞おうとする旅人の姿がそこにある。スナフキンは自由を実践するための決まりごとを抱えて行動している。自由とは何か普段から考えているので、悟ったような言動が多い。気ままというよりは求道者であり、ストイックな印象はそのためだろう。自由とストイックという概念はかけ離れている。
子どもの頃に読んだのでうろ覚えだが、雲のジュウザも真に自由ではなかった。愛する人がいて、その人のために非業の死を遂げたかと思う。愛するものがあると人は自由ではいられない。愛するものに属してしまう。
身を焦がすほど待ったことのない幸せな人生
2020/06/15
『「待つ」ということ』鷲田清一/角川選書
いろんなことを待っている。人生の大半は待つことではないだろうか。何かの行為があり、その結果がでるまで待つ。勉強、仕事、恋愛、子育て。
この本では待つことから発生する様々な思いを哲学的に考察して、待つことの意味を捉えなおしていく。
意のままにならないもの、偶然に翻弄されるもの、じぶんを超えたもの、じぶんの力ではどうにもならないもの、それに対してはただ受け身でいるしかないもの、いたずらに動くことなくただそこにじっとしているしかないもの。そういうものにふれてしまい、それでも「期待」や「希い」や「祈り」を込めなおし、幾度となくくりかえされるそれへの断念のなかでもそれを手放すことなくいること、おそらくはここに、〈待つ〉ということがなりたつ。P17
章のタイトルを抜粋すると「焦れ」「予期」「自壊」「冷却」「是正」「省略」「遮断」「膠着」「放棄」「空転」など。待つことの多様な状態がそこにある。
哲学的な考察は素人の私には難しい部分もあり、半分も理解したのか怪しいけれど、興味深く感じる指摘もたくさんあった。その中でも多く触れられている「忘却」の部分。
希望を持つ限り、その希望が叶うことを人は待つ。希望が叶ったとき、もしくは希望を完全に失ったとき、人は待つことを止める。だが、忘却によってもまた待つことから解放される。
忘れる、あるいは忘れたことにするというのは、じぶんが思い悩んでいる事態の脈絡のいくつかを外すということである。〈わたし〉が絡めとられている脈絡のいくつかを消す、つまりはじぶんを押し殺すということである。「あんたはもういんものと思てる」と言うのも、「あのひとは死んでしもたと思うことにする」と思い定めるのも、「あんた」への期待をきっぱり棄て去るということである。本人にとってはそれはもう最後のあきらめかもしれないけれども、しかし、こうしたいくつかのコンテクストの削除によって、〈わたし〉がはまり込んできた事態の布陣そのものが、知らず知らず、微妙に変わりゆきもする。つまり、別な状況が生まれることがかろうじてありうる。断念が断念に終わらず、これまで視野になかったことが生起しうる場を、忘却がたぐりよせるということがあるのだ。
P181
待つことは悪いことではなく、本書は待つことの可能性、待つことによる救いについて書かれた本だ。読むほどに、自分の人生を振り返り、僕は待つことに耐えられない人間だったのだと思い知らされる。忘れること、なかったことにして、希望を捨て、待つことをやめたことがいくつあっただろう。
それは、捨ててもこうして生きていられる程度の希望だったとも言える。
いつか僕もどうしても捨てられない、忘れることのできない希望にすがり、何かを待ち続ける日が来るのかも知れない。その時、この本は大きな救いになるのだろう。
僕は僕であるために、僕のままでいたい。
2020/06/18
『どもる体』伊藤亜沙/医学書院
僕も子供の頃から、時々どもることがあった。上がり症で人見知りのため人前で話す時に多かったような記憶がある。大人になっても大勢の人前で話すときに稀にあり、友人の結婚式でどもってしまった。順番にマイクが回ってきてテーブルで話すときのことで、僕にしては珍しく晴れの場だからと頑張って冗談を言って会場の笑いを取った。その時は、無事に笑いに繋がって良い雰囲気になったので満足していたのだが、後日、同席していた友人が「あれ面白かったよね」と私のどもっていた言葉の再現してくれた。まったく気づいていなかったのだが、あの時、僕は少しどもっていて、そのため笑いがより起こっていたのだった。その友人による私のものまねを聞いてショックだった。確かに私はその通りに言い、それをまったく自覚していなかった。
この本ではどもることについた書かれている。どもる人に向けた内容ではなく、どもるという現象はなぜ起き、それはどもる人にとってどのような影響を与えているかを考察する。
発音がスムーズにできなず、ど、ど、どもるという現象(「連発」と呼ぶ)がなぜ起きるのかを発声の観点から分析。連発の状況を避けたいと願うことで、今度は言葉がでなくなってしまう「難発」という現象。言いにくい言葉を避けて同じような意味の別の言葉を使う「言い変え」。
連発以外の状態は心の状況によって生み出される。意識的にしろ無意識にしろ連発を避けたいという思いが難発となり、言い変えになっていく。どもる体について分析するなかで著者が注目するのは「コントロールできない体」について。そして、何人ものインタビューによって見えてくるのは、自分らしいと思う姿が人それぞれ違うということ。うまくどもる体をコントロールして日常生活を平穏に送るひともいれば、どもる体こそ自分本来の姿だと思う人もいる。
僕もどもることがあると思っていたが、こうして読むと緊張しているだけで、こうした状態とは無関係にようだった。だが、緊張して言葉がでないという状況はよくあり、「コントロールできない体」の感触はすこしわかる。45歳になって、それなりの場数を踏んでいるのに、複数の人前で話そうとすると息が詰まり、耳がキーンとすることがある。
そんな自分が学生時代はとても嫌いだった。もっと堂々と話せるようにとは今でも思う。けれども、トラウマレベルで声が出なかった経験をいくつか持ったことで、緊張しながらも言葉を発することができれば、そんな自分を認めることができるようになった。
「すごい緊張してましたね」と声をかけられることが多い。そんな時は「あれでも、僕の中ではうまく喋れたほうですよ」と笑えるようになった。魔法の薬を飲んで、人前で流暢に喋ることができたら、自分の体がコントロールできていない、本書の言葉でいうと「乗っ取られた」ように感じるのかも知れない。僕は僕であるために、僕のままでいたい。
美しい物語が醜いぼくを打ちのめす
ひとりの老人の元に14年間、季節ごとに通って写真を撮る。その老人の名前は弁造さんと言い、北海道で小さな小屋に暮らし、美しい庭をつくる。若い頃は画家を目指していて、東京の洋画教室にも潜り込んで勉強。個展をすることが夢だとエスキース(下絵)を描き続けている。
弁造さんとの日々を書き記し、弁造さんの生活、思想、人生、その言葉から弁造さんの存在について思いを巡らせた随筆集。みすず書房刊の端正な造本、表紙の幻想的な庭の写真とはうらはらに、弁造さんは冗談ばかり言う田舎のおじいちゃんという様子。
だけど、カメラマンである著者の弁造さんと向き合う真摯な言葉と誠実な姿勢によって、全編にわたって心をふるわせる静かな感動が満ちている。某○○くんではないが、弁造さんが死ぬことがわかっているだけで、もう全てのシーンに引き込まれる。
こんなことがあった、こんなことを言っていた、過去にはこんなことがあったらしい。そうしたことを積み重ねたけれど、はたして自分は弁造さんの何を知っていると言えるのだろう。などという問いの前に、読者は宙づりにされる。後世に語り継がれる本だと思う。
だが、至らない人間である僕は至らない過去が邪魔をしてうまく本の内容に入り込めない。
弁造さんのことを深く知るため、ただ弁造さんの近くにいたいため、足を運ぶ著者の姿をみて、年老いた親を面倒に思って避けるように生きてきた自分の人間としてのクズさを突きつけられているようで、読んでいてずっと苦しかった。
実の親について、僕はここまで真摯に向き合ってこなかった。それどころか。僕は人に対してここまで向き合ったことはない。本書の著者が美しいストーリーを生み出すほど、自分の醜さに打ちのめされていく。本書が素晴らしいゆえに、心の底から楽しむことができない。今までにない読書体験だった。
ひとりの日記
2020/07/02
日記って何だろう。外は晴れている。
梅雨の晴れ間。自転車に乗って少し遠くの大きな公園に行った。しばらく本を読み、ぼんやりと空を眺め、遠回りをして家路につく。
何週間ぶりだろう、やっと一人になれた。自分だけの時間を半日だが過ごすことができる。休日に妻は仕事で夕方まで帰ってこない。娘も学校から戻るのは夕方。二人を見送ってから6時間。自分だけの時間を6時間持つことが、こんなに久しぶりなことに驚く。
机の上には妻が買ってくれた湯呑がある。えてして自分の湯呑というものは、生活に落ち着きをもたらす。自分だけの湯呑。自分だけの時間。家族と共有するものが生活だと普段は意識することもなく過ごしているのだけど、こうしてひとりの時間を持つことを喜んでいる自分に少し驚く。
こうして僕がひとりでいる時こそ、自分の湯呑が自分だけのものだと実感する。隣には妻と娘の湯呑がある。並んでいるけれど、それぞれ違うもの。僕の湯呑にだけ冷たいジャスミンティーが満たされている。
思うに、日記を書くという行為も極めて個人的なものだ。もう長いこと、僕は誰かといることで、他人を意識をしすぎ、僕ひとりのために言葉を費やしてこなかった。
僕は自分の考えていること、自分がどこにいるかを見い出すために何かをしてきただろうか。他者とのぶつかりを避けるあまり、さまざまな感情をのみ込んできた。こうして平穏な日常を得ることができたと思えば、それが間違っていたとは思わない。ただ、もう少し欲をだして、自分だけが納得する世界を持ってもよいのではないだろうか。
そのためには自分の時間と自分の言葉が必要だ。生を深々と味わうために、僕は日記を書く。
忘れられた日記たち
よそで日記や書評を書いていたのをすっかり忘れていた。なんとなくアカウントをつくり書いては存在を忘れるということを繰り返してはや何年だろう。もう思い出せない日記があちこちに眠っているはず。
この日記もまたそんなことになるのかも知れない。とは思いつつ今のところまだ生きているので、生存の可能性がまだあるここに、過去の日記をここに移設しておくことにする。